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自我状態とエンプティ・チェア

あるてぃー 就労移行支援 生活訓練 ゲシュタルト療法 エンプティ・チェア 自我状態 防衛機制 抑圧と投影

ゲシュタルト療法とは?

 心理学の大きな流れの一つ、ゲシュタルト心理学と呼ばれるものをベースにつくられたものが、ゲシュタルト療法です。フレデリック・パールズという方が創始しました。

 まず、「ゲシュタルト」という言葉の意味ですが、「全体性」というような意味になります。

 もともと完全な全体だった人間が、「部分」というものに分断されてしまい、部分同士の葛藤や分裂、部分同士の孤立というものが生まれていき、生の瑞々しさが失われてしまった状態を、再び、統合や合一、全体性に気付くという状態に戻していくのが、ゲシュタルト療法というものになります。

 ゲシュタルト療法の中に、エンプティ・チェア(空っぽの椅子)という技法があり、それは部分部分に分断され、それぞれが隔絶してコミュニケーションを失ってしまったペルソナ(人格)あるいは自我同士に、コミュニケーションの機会を与え、交流を再び生み出していき、分断から再び統合へ向かう療法です。

 再び、統合に向けたプロセスを辿っていくのが、生の全体性を取り戻すということです。

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仮面=ペルソナ(Persona)とパーソナリティ(Personality)

 話変わって、フロイト精神分析は古くさいものなのかと思っていましたが、やはり現在も重要な概念ということを再認識しました。

 特に、今回紹介するエンプティ・チェアでは、このフロイトの心の防衛機制というものをしっかり理解しておく必要があります。予備知識として、これを知的に事前理解しておくことは必須だともいえます。

 まず、「わたし」というものを構成しているものはなにかというと、いろいろな意見がありますが、無数の仮面(ペルソナ)がひしめき合っているとする意見があります。その時々によって、前面に出てくる仮面が違うのですが、それらを総称して、人格(ペルソナリティー)という言い方をする場合があります。そして、ペルソナ同士の矛盾や葛藤が、人生の一時期に影を落とすということがあるのかもしれません。

 ペルソナは無数にありますが、抽象度を上げ単純化すると例えば、

 グルジェフが言うところの4者(①荷車・②馬・③御者・④主人)というたとえ、④主人以外の3者がペルソナを構成するものと言っていいかもしれません。それらが互いに連携していなかったり、一者が突出してしまうと上手く機能しなくなるといえます。

 また、交流分析(TA)では自我の状態を代表的な5側面で捉え、①CP(厳格な父親)・②NP(養育的な母親)・③A(合理的なおとな)・④FC(自由な子ども)・⑤AC(従順な子ども)といった風に、個人の中で優位な側面はあるものの、これもバランスが必要ということがいえます。

 フロイトは、また別の言い方で、パーソナリティーを構成する主な要素として3つ、①イド=エス・②超自我・③自我という3つの自我を想定しました。実際にはこのようにはっきりと3つの自我が独立して存在しているわけではないと思います。

 ここでは、フロイトの論に則って、①イド=エスは様々な欲求原則を満たそうとする無意識②超自我は、親のしつけなどによって植え付けられた、「すべき」または「すべきでない」という、見張り役の「いい子ちゃん」③自我は、いわゆる「わたし」で、現実把握をしながらイドと超自我の調整を行いながらバランスをとるというものとして考えられます。③自我は、①イドからの、快感原則に基づき欲求を実現しようとする上昇、②超自我からの監視と押さえつけの間を縫い、調整を図りますが、なかなかそのバランスをとることが難しい場合があります。そして自我を存続することの危機感に瀕したとき、自我はそれ自体を守るために、様々なチート(必要な場合もある)をおこないます。それらが防衛機制と呼ばれるものです。

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抑圧(Repression)と投影(Projection)

 では、防衛機制(ある一つの自我が、危機を迎えた(と感じた)ときに、その自我を守るために無意識下でおこなわれる、いろいろな策を講じる仕組み)のどういった働きを理解しておくとよいのかということを述べていきたいと思います。

 私が参考にさせていただいたページ(Freegestaltworksさんのページ)は、とても分かりやすくその説明がありますので、ぜひ参照してほしいです。

 まず、防衛機制の中の「抑圧」というものがあります。それは、超自我的なもの「○○すべきである」とか「○○してはならない」という規範的な心が強すぎる場合、それはおそらく親や大人などからしつけという形で植え付けられた、規範に沿わない事どもを「ダメな事」や「嫌な事」、「あってはならないこと」、「持ってはいけない心」として押さえつけ(抑圧)、まるで存在しないかのように扱い続けることであたかも存在を消しているように見えるのだが、実際には押さえつけた(抑圧した)フタの下には依然として沸々とした「ダメな事」「べきでないこと」などの存在を隠し続けているというわけです。

 次の防衛機制として「投影」というものがあり、先の「抑圧」した感情、それは「持ってはいけないもの」なのだが、それら隠してきた影と同質のものが、他者を通して見えることを「投影」といい、今までに押さえつけ、抑圧してきた「見たくないもの」が、他者を通して見えたときに、それはまったく他者だけに備わった悪しきものとして嫌悪の目で見るのだが、実はそれは自分の中で、禁忌にしてきた故に見えないふりをし続けていたものが、他者というスクリーンを通して目の当たりにされてしまい、そこから自我を守るために、「あの人が悪いのであって、自分にはその性質はない」という風に、自分に嘘をつき自己欺瞞による葛藤を生むというわけです。

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投影の対象が人間以外のものであるとわかりやすい!

 なぜか、投影の対象が人間である場合、自分が投影しているものを見ているということを理解しづらい。しかし、対象が人間以外であれば理解をしやすいのではないかと思う。

 例えば私が「あの犬はかわいい」というのは、別の人が見れば「あの犬はかわいくない」とみる人もいる。犬が放つ「かわいさ」とは絶対的なものではなく、わたしの中に「犬はかわいい」というココロ(基準)があるからそう見えるのである。

 私が「あの石はきれいだ」というとき「あんな石ころ汚い」と思う人もいるだろう。石に絶対的な奇麗さが備わっているのではなく、わたしに石をきれいだと思う心があるということである。そのココロを通して石を見ているから、石が奇麗なものとして私には見えるのである。

 しかし、これが対象が人間となるとわかりづらい、というか認めづらい。先のフロイトの例えであれば、欲求に正直なイド=エスが「少し頭が痛いから、今日は仕事を休んでしまおう」と思ったとき超自我というよい子ちゃん/裁判官が「少しぐらい頭が痛いくらいで、仕事を休むなどけしからん」などと言って、イドの欲求などなかったこととして押さえつけてきたとしましょう。その時、バランスは崩れて超自我のみが優位になってしまっているかもしれません。ある時、会社の部下が「今日頭が痛いから仕事を休みます」などといったときに、私の中にある超自我が「そのぐらいのことで休むなんてけしからん。あいつはとんでもない奴だ」などと自身の超自我がかつて抑え込んでしまったイドの欲求を、部下が軽々と出してきたことに憤慨して攻撃を始めることがあるかもしれません。しかし、部下の行為をみて憤慨しているのは、実は自分自身がかつて、抑圧しフタの下に押しやった見えざる者だったというわけです。

 そもそも防衛機制というものは、超自我がイドの欲求を監視しふさわしくない場合に作り出されるものと考えられます。

 超自我優位ならば頭でっかちで厳格、イド優位ならば脱抑制的で反社会的な人間となってしまいます。

 いずれもそれぞれの自我がバランスよく存在していることが健康的な状態といえるのだと思います。超自我の社会性もイドの欲求もどちらも必要なものであるという事です。

エンプティー・チェアについて

 さて、抑圧や投影がなぜ自分自身にとってよくないかというと、それを自分の中に在るものとして扱っていないため、圧倒的に他者性としか見ないことによって、影となった自我とほかの自我たちのコミュニケーションが断絶してしまい、まったく交流がなくなってしまうことにある。

 他者との間に交流があったりなかったりするのは、よいとしても、自分の中に確かに在る自我同士がコミュニケーションを断絶してしまうとバランスを失ってしまうことになります。先に挙げた超自我がイドの欲求を無いものとして抑圧したことにより、超自我とイドによる健全な交流が失われてしまい、超自我のみが優位になってしまうと他者や自身をいつも裁いてしまうという事が起こるかもしれない。

 そこで、やっと本題のエンプティチェアで、これによって自分の中には存在しないとしてフタをしていた影となった自我と、他の自我の、断絶していた自我同士の交流を再びはかるということができる。

 

エンプティ・チェアの手順は次のようにおこないます。

①椅子を2脚用意し、向かい合わせにします。1つは自分が座っている椅子。向かいは誰も座っていない椅子(エンプティ・チェア)

②エンプティ・チェアに座らせる対象を選ぶ。対話をする相手を選びます。一番多いのは、あなた自身が嫌っている相手や、特定の感情を想起させる相手。(この場合その相手はあなたが抑圧してきたシャドーの象徴であるかもしれません。)また、もう亡くなってらっしゃる方や、過去の自分(インナーチャイルドのような)、ある症状やパーツを擬人化して対象にすることもできます。

③最初は自分の椅子に座り、相手(例えばいやな人)との関係性や感じたりしていることをしっかりと思い描き、そして相手に正直に伝えます。上述の原理に照らして言えば、相手に感じている感情は、実は自分が存在しないものとして扱ってきた自分自身の自我であるので、それを目の当たりにするので心理的抵抗が生まれてくるかもしれません。

相手の人の、「どこが」嫌いなのか?「何が」嫌いなのか?その部分を反転することによって自分がフタをしてきたものをしることができます。原理を知った上で、丁寧にやり取りする必要があるかもしれません。

④今度は自分の椅子から、エンプティチェアに移動し、今度は相手の視点から、先ほど伝えられたことへの応答や、あなたに対して思っていることや伝えたいことを話します。

⑤こうしたやり取りを役割交替しながら、何回か往復していきます。

 

 このエンプティチェアは、ファシリテーターがいますが、セルフ・エンプティ・チェアもできます。ただし、それは自我の働きというものを理解している人のみが、意味のあるセルフ・エンプティ・チェアを行うことができます。

 意図を理解しながら、本当に味わい尽くしていくと、もしかしたら今まで互いを遠ざけてきた自我同士の交流が生まれ開放的な気持ちになるかもしれません。そこで、いままで忌み嫌って遠ざけていた「自我や感情」が、実は恐れるようなものではなく、むしろ自分という全体の中の欠かせない一部であるという事を悟ることができるかもしれません。その時、部分部分に分裂していた自我たちが交流をもち、再び統合をする時かもしれません。

(それは、アドヴァイタ(一元論)であった人間が、光と闇、生と死などの(二元世界)に惑わされてしまい、放蕩息子を演じていくが、最後にはまた一元世界しかないという全体性に気付くという、人生の物語にも似たものといえるでしょう。この再び統合をするという物語自体に価値があります。)

 

3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。

4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言いえようか。

5 偽善者よ、まず自分の目めから梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

~マタイによる福音書7章~

 7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

 

~ヨハネによる福音書8章~

まとめ - キーワード

  • ゲシュタルト療法
  • エンプティ・チェア
  • 自我状態
  • 防衛機制(抑圧と投影)

あるてぃー 沖縄 就労移行支援 生活訓練 公認心理師 内藤拓也
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